#21「京のあれこれ」—ちょっと不思議な京都人気質—

富岡製糸場の世界遺産登録の快挙は久々の明るい話題でしたね。
ワールドカップで日本国民全員が「どーなってんの〜」って首をかしげている時に、今回(第38回)の世界遺産委員会が開催、登録が決まったのが、奇しくもカタールの首都ドーハでした。
これってなんて言うんでしょうね。「江戸の仇は長崎で」でもないし、何かピッタリの言い方がありそうなんだケド。良くわからないので、「ドーハの仇はドーハで」と、とりあえず、そんな感じで。(若い方にはドーハと言っても「何ソレ」ってなるかなぁ?)

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さて、今回の話題は京都です。
こちらは、1994年に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
日本では奈良(法隆寺地域)、兵庫(姫路城)、鹿児島(屋久島)、青森(白神山地)に次いで5番目の登録でした。
京都の人は涼しい顔をしながらも、悔しかったでしょうね。奈良に対する軽いライバル心を秘めていますし、なにせ1200年以上の歴史同士ですから。
江戸(東京)や大阪なんぞは若造くらいにしか感じていないでしょう。

そんな京都のあまり知られていないお話しをご紹介しましょう。

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まずは、「将軍塚」の話から。

平安京は794年10月22日に日本の首都として始まった都市です。
当時、曜日があったとしたら土曜日に始まったことになります。(ちょっと余計な情報でした)
長岡京から平安京へ都ごと引っ越し。その理由は桓武天皇が弟の早良(さわら)親王の祟りを恐れたからでした。早良親王は藤原種継(たねつぐ)暗殺の嫌疑で淡路に流される途中で「やってないし」と言いつつ死去。後に祟道(すどう)天皇という名の、それはそれは怖い祟り神になります。

場所を平安京に決めたのは、今で言いますと、東山ドライブウェイの頂上で、和気清麻呂(わけのきよまろ)が桓武天皇に京都盆地を見下ろしながら、「都はここが最高でっせ」と進言。天皇は、「ほなら、そうしようか」ということになりました。(貴族言葉では解りにくいので、筆者が解りやすくしています)
「そんでも、やっぱり怖いネン」という天皇に、「おまさん、ほんまに恐がりでんな。ほな、こないしまひょ」と、都の鎮護のために、高さ2.5メートルほどの将軍の像を土で作って、鎧(よろい)や兜(かぶと)も着せて、太刀を帯に差し、弓を持たせてから、塚に埋めることにしました。
これが「将軍塚」で、今でも将軍塚大日堂(青蓮院の飛地の境内)に残っています。

平安末期以降は天下に異変がある時は、その前兆として将軍塚が鳴動し、たちまち曇天の空となって、兵馬が駆ける音が聞こえます。
保元の乱や治承の乱の直前には、将軍塚が鳴動して「なんか起きるのやおへんか」と京都中が大騒ぎしたそうです。

最近は、あんまりにもいろんなことが起きるので、将軍塚も「こんなもん、やってられへんわ」と、鳴動を止めてしまったようですね。

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さて、世界遺産に最も指定されるべきで、指定されていないのが「伊勢神宮」。
そんな伊勢神宮と縁のあるのが「野宮神社」(ののみやじんじゃ)です。

嵯峨野にある野宮神社には珍しく真っ黒な鳥居があります。
クヌギの木を皮を剥かずに、そのまま鳥居に使用、これが日本最古の様式だそうです。

野宮とは伊勢神宮に奉仕する斎宮(さいぐう:伊勢神宮で仕える巫女さんのことです)が伊勢に出向く前に、世俗から離れて心身を清めるために、しばらく身を置く所のこと。
神様に仕えるというのは、大変なんです。(したこと、あんのかいな)
斎宮は天皇が即位される毎に天照大神の御杖代(みつしろえ:天皇の代わりに奉仕する者)として伊勢神宮に遣わされます。

始めの頃は、野宮はいろいろな場所に設えられていましたが、嵯峨天皇の代から「あっちゃ、こっちゃは止めて、ここにしまひょ」と野宮神社に設営されるようになりました。そんな貴重な行事が行われていた名残が、嵐山にある野宮神社です。

都を出て、伊勢に着くまでは5泊6日を要しました。官人や官女合わせて数百人の道中で、これを「斎王群行」と言うのだそうです。

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では、そろそろ「京都人気質」の根っこに触れる話を。

1200年以上、都市として繁栄している場所は世界でも有数。(アメリカでも建国してから、まだ238年だもの)
京都の人からすると、アメリカなんて、ひよっ子もひよっ子。だって、京都人を名乗るには応仁の乱の前から住んでいないとだめなくらいですから。

「天皇はんが、一番長くおいやしたのが京都どす」
京野菜はブランド品ですが、これは天皇はんに食べて頂くために、工夫を凝らして改良して完成させたもの。「今でも天皇はんあっての京都どすぇ」

京都人と天皇を語るには避けられないテーマがあります。
明治維新の時、東京遷都は行われたのか?

幕末の大政奉還により、天皇親政に際して遷都の気運となっていましたが、江戸の情勢は不安定でしたので、浪華遷都の建白書が提出されていました。
「なんで、浪華なんかに行きはんのどすか?」「ちっとも、ええことおへんえ!」「好かん、タコ!」と京都市民の猛反対の末、廃案。
天皇は、行くところも定まらず、漫然と天保山で軍艦をご覧になられていました。

「徳川はんも駿府に行きはったし、江戸城に行こうか?」とか、「東日本も盛り上げていかないとなぁ」なんて思案していますと、「東西両都」の建白書が提出されました。「これや、これが、ええやんか」ということになって、可決。

「東京遷都」を止めて「東京奠都(てんと)」。奠都は、元の都を廃止しないで移すという意味なのだそうです。

天皇は京都の人にも東京の人にも気を遣いつつ、行ったり来たりを繰り返されました。
東京へ行こうとすると、京都の人々が「なんで、東京なんかに!」「ええことおへん!」「タコ!」とあまりにも大騒ぎするので、京都府が「天皇はんは、これからも、あっちゃこっちゃへ行くけれど、京都は千年以上住まはった場所やから、ほんまに大切に思っておられるから、心配いらへんぇ」となだめる声明(告諭大意)を出しました。

どさくさに「名古屋に遷都したら、ええんちゃうん」という意見まで出たそうです。

今でも京都の人々は、こう思っているはずです。
「東京が都なら京都も都。天皇はんは、京都にお住まいもあって、今はちょっと東の方へお行きやけど、また戻って帰やはるから、お留守の間は、うちらがしっかりとお守りせんとあかんのぇ」
「そうどすやろ、な」と子へ孫へとその気概は伝承されて行きます。それは、決して他府県の人の耳には入らないことです。(じゃあ、なんで知ってんねん)

と、まあここだけの秘密ですから、他言無用で。ネ。