#22「私が敬慕する市井の歴史学者」—池田仁三氏についてー

一般に市井の歴史学者というと、胡散臭く思われがちです。
トロイの遺跡を発見したシュリーマンですら、実際は利潤を追求する経営者で、遺跡発見は本物でも、遺物をねつ造したりしていましたから。
その他諸々の人たちが、いぶかしい目で見られても仕方がないのかも知れません。
しかし、ほんのわずかなのかも知れませんが、そんな市井の学者の中にも、事実のみを正確に伝えようとする尊敬すべき人がいることも確かです。

私は池田氏に出逢い、そんな学者の存在を初めて知ることとなりました。

******

2010年の夏、池田市の観光マップを作成する仕事が入ってきました。
池田市の印象は大阪府の中でも結構北よりにあって、大阪市街のような派手な商業地域ではなくて、どちらかと言えば、昔からの住宅地域といったイメージでした。
私のような不案内でなく、良くご存知の方は「呉春」という名酒や、桜で有名な五月山があるじゃないかっておっしゃられるでしょう。さらには、落語ミュージアムやインスタントラーメン発明記念館も挙げられるでしょうか。

******

マップ制作にあたって、ボランティアの観光案内の方のご協力で、市内を巡っていろいろと教えて頂きました。ご案内は皆さん実に丁寧で、ご親切。定年後のボランティアにも関わらず、恐ろしく健脚の方々です。今から思っても、本当にありがたく、感謝いたしております。

*****

池田は昔からの交通の要衝です。七つの街道が池田をまたいでいます。亀山へ抜ける「余野街道」、能勢妙見山へ通じる「妙見道」、能勢高山までの「高山道」、勝尾寺と中山寺を結ぶ「西国巡礼道」、能勢の妙見山や亀岡方面に抜ける「能勢街道」、有馬まで行ける「有馬道」、西日本と京都を結ぶ重要路「西国街道」。
また、猪名川に面し、下れば神崎川へとつながりますので、大阪湾まで物資を運ぶことができました。

*****

歴史上のさまざまな人がこれらの街道を行き交い。また、文化交流の場となりましたので、高尚な文化と知性がこの街に蓄積されてきました。後に阪急電鉄と宝塚歌劇団を生んだ小林一三氏がこの街に誕生し、近代日本の実業界に影響を及ぼしていくのも、こんなところに根っこがあったのかも知れません。

*****

池田の寺社をいくつか案内されながら、少し不思議に思ったことがありました。
それは、その神社の多くで、その末社に神功(じんぐう)皇后が祀られていることでした。
神功皇后と言えば住吉大社の第四本宮に祀られています。神功皇后は新羅に兵を引き連れ、朝鮮半島の広範囲(馬韓・弁韓・辰韓)を服属、三韓征伐を成し遂げたと古事記や日本書紀に記載されています。
ボランティアの方のご説明によれば、猪名川が氾濫することが多く、海の神である神功皇后に守って頂くために祀られているとのことでした。

*****

また、池田には大きな謎がひとつあります。

五社神社の境内の裏側にひっそりとその入り口があるのが「鉢塚(はちつか)古墳」。
これは巨大な横穴式石室の墳墓です。歴史的な価値では飛鳥の石舞台にも匹敵します。大きさは同程度ですが、鉢塚の方はしっかりと土の下に収まっており、さらに石舞台以上の高度な技術が施されています。天井石に至る上部がアーチ上に積み上げられているんです。
ここを案内して頂いた時は、さすがに驚愕を覚えずにはいられませんでした。
この規模はよほどの権力者の墳墓に違いなく、被葬者を尋ねると、未だに解らない謎だということでした。
「鉢塚古墳」という名前の由来は、神功皇后が三韓征伐から持ち帰った鉄の鉢をここへ埋めたことに因るとのこと。
また、突然に神功皇后が登場しました。

五社神社のすぐ近くの若王子釈迦院にも神功皇后の鉄鉢の故事があり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、北の政所(ねね)が戦勝祈願にここまで参りに来たといいます。

*****

この古墳は気になって仕方ありません。
誰を埋葬したのでしょうか?

職場に戻ってからは、図書館で借りてきた池田市史に関する資料をつぶさに精査しましたが、被葬者の記載はどこにもありません。
その後、数日間はインターネットで調べていました。私のような素人が今まで不明であった被葬者を突き止めることなどできないのは解っていますし、ましてやインターネットなんかで。
と思いながらも数日後、誰も見ないような検索サイトの深い所をさまよっていた時、「池田鉢塚」という文言にたどり着きました。
古墳陵主墓碑銘調査を行っていた池田仁三氏のホームページでした。

*****

そこには、当たり前のように被葬者名が明示されていました。
「息長宿禰命(おきながのすくねのみこ)・迦迩米雷王子(かにめいかずちのみこ)」。
それは神功皇后の父王でした。
神功皇后が三韓征伐から持ち帰った鉄の鉢という勝利の証をこの墳墓へ埋めた理由も、これで明白となりました。父の墓だったからです。

池田氏の墓碑銘調査の方法はコンピュータ解析とのこと。きっと解析された画像があるに違いありません。
そう思うと、証拠の画像を見たくてたまりません。池田氏に連絡を取ると会って頂けることを快諾いただきました。

*****

近畿日本鉄道で伊勢市へ。
五十鈴川駅にお出迎え頂いた池田氏は小柄ながらも気骨を感じるご尊老でした。
軽自動車へと案内され、運転しながらも、休む間もなく話し続けられました。私はほぼ相づちだけの状態。自衛隊の出身であることや、今は伊勢市史の編纂を任されていること、など、など。

*****

ご自宅に上げて頂くと、鉢塚古墳の碑石の画像と紅茶とブルボンのアルフォートが出されました。
その画像には、まぎれもなく「息長宿禰命」の文字が見えていました。

そして、解析の方法を惜しげもなく説明されました。

*****

碑石の写真画像をパソコンに取り込み、ソフトで彩度、明度、コントラストを調整することで、碑石表面の凹凸、墨の炭素粒子や朱の水銀マルガムの痕跡を識別可能にします。
墓碑銘は、石室が残存している場合は石室入口上部の鏡石や石室内部の奥壁・側壁など比較的見やすいところに刻まれています。石棺の場合、棺は概ね全ての面に、蓋は上面や周辺部に、底板はその上面に刻まれているとのことでした。

古墳に墓碑銘を読み取れれば、漢字伝来6世紀というこれまでの定説が覆ります。また、ずっと不明であった古墳の被葬者が容易に解ってしまえば、考古学会・歴史学会という世界の根幹がゆらぎます。
そんな震える思いで、池田氏の話を粛々と聞いていました。

*****

池田市の観光マップに記載したい旨を説明しますと、池田大老は「学者や権威に寄った人に、私が今までの調査の結果を説明すると、従来の学説が大きく崩れるので、必ず私を排斥しようとしました。先方が役所なら、経験上間違いなく記事は無駄になりますよ」と恬淡と答えられました。「でも、やってみなさい」と。

*****

いけだ市民文化振興財団の御担当者はとても気さくで、人の思いを汲み取って頂ける方でした。
池田市役所の担当の方々も面白い記事だから掲載したいととても理解を示して頂いて、観光マップに掲載することができました(記事についてのお問い合わせでご迷惑をお掛けしたかも知れませんが)。
やはり池田市は他市とは違って、古来より受け継いだ高い文化力と民度を併せ持った地域であることを実感いたしました。

*****

池田市には、織織りの技術がこの地に伝わったという織姫伝説があります。
歴史上では機織りの技術は秦氏の渡来と共に伝わりました。
秦氏の祖である弓月君(ゆづきのきみ)は応神天皇が百済から率いて帰化させています。
応神天皇の母は神功皇后。
祖父の息長宿禰命が池田の権力者であったことが、今回解りました。

神功皇后の三韓征伐の三韓のひとつである馬韓は後の百済であり、それらを服属させたことで、応神天皇がここから秦氏の祖、弓月君を帰化させて、この池田に機織りの技術が伝わったことが容易く推測できます。

制作したマップを見ていると、「秦野」や「畑」という地名が見受けられることから、池田の地に秦氏が多く住んでいた、ことも推察できます。

ぜひ一度、池田にお出かけになって、池田観光マップ(Z-CARD版)をお買い求めになられて、お確かめください。

*****

池田仁三氏は昨年5月24日にご逝去されました。
最後の著書「画像解析によって判明した古墳墓碑 上下巻」(青林堂)が前日の23日に刊行されていました。最後まで一途な市井の学者だったようです。

この著書から池田氏が日本全国の古墳を調査し、多くの画像解析をされていたことが解ります。かなりたくさんの有名な古墳の被葬者を示す証拠の画像が掲載されています。

この著書で、考古学会・歴史学会は揺らぐのでしょうか、今まで同様に完全無視をするのでしょうか、反応はこれからの楽しみです。

*****

ご逝去から一年と少しが経ちましたが、一度だけの出逢いを思い出さずにはいられません。
ブルボンのアルフォートがお気に入りで、美味しいからと強く薦められたことを思い出します。知っていますよ、とは言えず、口から出たのは「あ、ホント美味しいですね」の一言、もっとお話しをしておくべきでした。

今回は池田大老に出逢った、私にとって最大の自慢話でした。