亀倉雄策さん(1915年-1997年)は日本を代表するデザイナーです。
彼の代表作が1964年東京オリンピックの「シンボルマーク」であり、「オフィシャルポスター」4種です。
シンボルマークは様々な形で利用されましたから、一度は目にされたことがあるでしょう。大きな赤い丸が紙面の左右ぎりぎりまで広がり、その下に金の五輪マーク、さらにその下に同じく金色の文字「TOKYO 1964」が配置されています。
亀倉雄策著「デザイン随想 離陸着陸」によれば、大きな赤い丸は太陽を表わして、日の丸という意味を重ねた意匠だそうです。赤い丸があまりにも大きいので、右翼から国旗を侮辱しているという抗議まであったとか。
オフィシャルポスターの第一号はシンボルマークを引き伸ばしたデザイン。
第二号は陸上選手数名がスタートダッシュする瞬間を真横から撮影しています。
第三号はバタフライで泳ぐ選手。
第四号は薄明に走る聖火ランナーでした。
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1964年という年は高度経済成長期の真っただ中。設備投資を中心とした第一期が終わって、輸出・財政主導型の第二期への転換期。一時的に景気が停滞した時期でした。
日本は第二次大戦後の焼け野原から奇跡的に復興し、朝鮮戦争特需の後、高度経済成長が始まりました。エネルギーが石炭から石油に転換。財閥系の企業もこの頃に立ち直ってきました。
東海道新幹線は1964年10月1日、東京オリンピックの開催に合わせて開業。
同じ年、東京モノレールも開業しました。オリンピック開催に向け、東京国際空港のターミナルビルが増築、滑走路が拡張されました。
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首都高速道路は東京市道路局にいた近藤謙三郎氏が提案した高速道のノンクロスロード案によるものでした。彼は1950年代初めに、立体交差によって交通渋滞を避けようと構想していました。オリンピックに間に合わせるため、用地買収を最小限に留め、既存道路や河川の上を利用したり、トンネルを通すという方法を採用して、無謀な挑戦を行いました。
そして、実現されたのは欧米の都市ではあり得ない、大都市の中心部をうねりながら走る首都高速道路でした。
この想像を越えるエキセントリックな光景は、後にアンドレイ・タルコフスキー監督の大作映画「惑星ソラリス」の中で近未来の風景として登場することになります。
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そんな時代の中で、亀倉雄策さんはオリンピックのポスター企画に悩んでいました。
日本は欧米からはまだまだ下に見られていて、デザイン芸術すら日本には無いと思われていました。国内でもデザインは印刷所が引き受けるものだと一般には思われていて、デザイナーという名称も一般化されてなく、図案屋と呼ばれていました。
欧米から期待されているのは日本のエキゾチシズムであり、それに迎合したのが「ジャポニカ」という流れです。亀倉雄策さんはこれに疑問を感じます。
「無難に合わせた古典芸術」か「今の日本が目指す近代合理主義」か。
そして、悩んだ結果、グローバルスタンダードをはるかに越えるデザインに挑戦しようと考えます。
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開催都市用のシンボルマークを創ろうと言い出したのは、亀倉雄策さんでした。
この後のオリンピックではどの都市も東京にならってシンボルマークを制作します。これらの各都市のシンボルマークを全て一覧すると、間違いなく言えるのは、東京のデザインが最もシンプルで力強いことです。
亀倉雄策さんは中学3年生の時から憧れていたデザイナー、アドルフ・ムーロン・カッサンドルの言葉に忠実であろうと努めます。
「画家のタブロー(キャンパス)というのは、ちょうど紳士が玄関から訪問するようなものだが、ポスターは強盗が斧を持って窓から闖入するようなものである。そのくらいでないと大衆は注意をはらってくれない。もし瞬間でも注意を向けてくれれば、ポスターは電報のように手短かに早く目的を伝達しなくてはならない」
つまりポスターに必要なのは、衝撃力と情報速度。
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東京オリンピックのポスターは海外でも大きな反響を起こしました。そして、第二号の陸上選手がスタートダッシュするポスターがワルシャワ国際ポスタービエンナーレで芸術特別賞を受賞しました。
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ポスターという概念がまだ曖昧な時代だからこそ、日本の旗指物として、人々に希望を与えて、色んなことに挑戦する活動力を生みだす使命を受け持つことができたのでしょう。
再び高度経済成長期に入ると、1968年には国民総生産が世界第二位の経済大国となりました。
さて、2020年の東京オリンピックは何を突き動かし、日本はどこに活路を見いだすのでしょうか。
とっても楽しみですね。
(参考:亀倉雄策著「デザイン随想 離陸着陸」、亀倉雄策著「亀倉雄策の直言飛行」、野地秩嘉著「TOKYOオリンピック物語」)
野地秩嘉著「TOKYOオリンピック物語」野地秩嘉著「TOKYOオリンピック物語」